これまで
Tomokazy Wayne トモカジー・ウェイン
最後だけど最初。誰かじゃなくて自分がやるんだ。誰かを泣かせてもやらなきゃならない。38年間捨てれなかったもの。39歳の遅さ、最後のチャンス。ビルが立ち並ぶ東京の町田駅西口のまだ誰も知らないやさぐれ・家出人・住所不定者39歳のTomokazy Wayne。
東京の町田の金森 (前・仁行堂・産婦人科) の生まれ
(1979年2月8日生まれ、本名ほそやともかず)、今44歳。
2018年3月3日、39歳の時にはじめる。主に東京の町田駅の西口で曲を作りはじめトモカジー・ウェインの音楽を作り上げる。”アイ リヴ イン ザ ブルー”や”マイ ファースト ラヴ”や”ジプシー ジャズ”などが特に世界中で聴かれている。
お金はいつも無い、彼女も奥さんもいない、友達もいない、相変わらず小さい時のまま、世間知らず、いつもいじけている。親にスタジオまで車で送り迎えしてもらっている。幼稚園の頃と変わらない。人に自分の気持ちを話したことはない。言いたいことは言えない。我慢してしまう。遠慮していまう。頭をペコペコ下げてばかり。とにかく無口。体を小さくしている。すぐに死にたくなる。色盲。コンタクトレンズをつけている。身長171ぐらい、体重54ぐらい。B型。朝7時30分に寝て、昼の1時30分に起きる。部屋に電気はない、つけない。近所に嫌われている。すべての音が気になってしまう。嫌なことがあると食べなくなる。44歳にして女の人の裸を今だに見たことがない。物を持たない。髪の毛は自分で切っているのでボサボサ。音楽以外一人で何もできない44歳。音楽ばかりの人生。自分の居場所を相変わらず見つけられない。いつも遅い。この早くて速い時代をトモカジーは遅れて生きている。いつも何でも時間がかかって遅くて遠回りの人生。食べるのも歩くのも成長するのもリズムも曲も遅いのが好き。トモカジーの人生は曲を書きギターを弾いて歌うだけ。
小学校の頃、先生に歌ってと言われ授業の終わりによくみんなの前で歌っていた。生まれは東京都町田、育ちは神奈川県相模原。音楽の好きな家族(父母弟)に生まれる。長男。母と生まれたばかりのトモカジーは渥美二郎さんの夢追い酒を聴いていた。幼稚園の頃、エレクトーンを習っていたがレッスンで歌っていた。ガットギターは生まれたときから音を聴いたりしていた。”ともちゃんは八代亜紀さんの雨の慕情が好きだった”とトモカジーの母・ツヤ子が言っている。幼稚園の頃とにかく泣いていた(行く前も着いてからも)のと食べ物が食べれなかった。お昼になっても朝ごはんを食べていて、夕飯になっても昼ご飯を食べていた。今でも食べることが苦手。1時間30以上かかる。いつもみんなが掃除していても遊んでいても"食べ終わるまで座ってなさい"と怒られる。いつも一番最後。子供の頃から青の帽子をいつも放さずかぶっていた。いつもみんなが駄菓子を買って食べているのを見ていた。みんながゲームをやっているのを一番後ろで見ていた。一人だけ好きな子がいたが好かれなかった。小学校の頃、ほとんどのことは学校の子に負けたと思った。音楽だけは勝てたが嫌だと思っていた。音楽以外の何かがやりたかったが音楽しかトモカジーには残っていなかった。吹奏楽や指揮者をやった。この頃に自分の人生を決めていた。
中学へ入りエレキギターの本だけ買って読んでいた。14歳の時に両親に付き添ってもらい安いアリアプロのエレキギターのセットを買い自分で覚えてエーデルワイスや学校の歌を歌いながら弾いていた。最初はフィンガースタイル、アルペジオで弾いたりしていた。作曲もすぐに始めた。母の聴いていた曲(マイケルジャクソンのカセットやオリビアニュートンジョンのジョリーンなど)や母のパートの知り合いがくれたカセット(ポップス、米米CLUBなど)をよく聴いていた。その後人にすすめられて洋楽のハードロックやへヴィメタルを聴き始めるが自分には合わないと感じた。そして自分のスタイルと同じブルースやエレキギターを弾きながら歌う人たちの曲を特に聴いていた。トモカジーは毎日8時間ギターの練習をしていた。三度の飯よりギターを弾いていた(母のコメント)。マンションでいつも大きい音でエレキギターを弾き歌っていた。中学から音楽室や体育館でライブをやりはじめ、高校からはオリジナルの曲でライブハウスや体育館でエレキギターと歌でライブをよくした。教室でもいつもギターを弾いていた。トモカジーに勉強は必要なかった。学校でいつもクラス全員に"気持ち悪い、髪型が女の子みたい"と言われて一人になる。その後は暗い部屋にひきこもり続ける。
思春期を乗り越えられず引きずったまま我慢の限界を超えても我慢してしまい心の中が真っ暗だった。誰にも話せなかった。感情を失った。好きという気持ちを失った。やさしさや思いやりを持って生きていてバカにされた。人を信じれなくなった。夢の中でまねき猫が真っ暗の中こっちを見ながら遠ざかっていって冷や汗をかいて慌てて起きた。もう自分には運もツキもないんだとはっきりわかった。いつも逃げ道がなく助けてほしいと思う。怖かった。いつも精神病院に入りたかった。エリッククラプトン、BBキング、ゲーリームーア、ジョンサイクス、ブライアンセッツァー、ルークモーリー、ティムクリステンセン、ジミヘンドリクス、スティーヴィーレイヴォーン、アルバートキングなどのシンガーギタリストたちやブルースの曲や本に勇気をもらう。自分と同じ悲しさを探していた。アフリカンアメリカンの人たちの音楽(アースウィンドアンドファイヤー、ウィルスミス、ボーイズ2メン、トニーブラクストン、ホイットニーヒューストンなど)もよく聴いた。Blues、R&B、Jazz、Funk、HipHopなど。ライブもいろいろ見に行った。死にたい気持ち寂しさ孤独をギターにぶつけるしかなかった。きちがいな程に。それまでずっと我慢ばかりしたり時間を無駄にしていたと感じていた。自分で自分をどん底に沈めたかったのかもしれない。ご飯を食べる以外ギターを弾いて曲を作り録音し続けた。母が"英会話に行ってみれば"と言ってくれ毎日通いはじめた。カルチャーセンターや英会話NOVAや近所のアメリカ人の所に毎日朝から晩まで通った。長い間"エレキギターを弾いているのに自分は日本人だ、いくら練習してもアメリカ人やイギリス人に負ける"というコンプレックスが少しずつ変わりはじめた。ジャズのピアノも習っていた(下手、月謝をほとんど払っていなかった)。この頃からアメリカ人などと一緒に演奏するようになる。ブルースのセッションにほぼ毎日行ってギターを弾いていた。ギターはジャクソンやレスポールを使っていたが10代後半から自分の体に合うストラトキャスターのFenderUSAクラプトンシグネチャーモデルを使い始める。クラプトンモデルのストラトとあちこちへバスや電車で行ってセッションした。終電に乗れず駅に朝までいたことがかなりあった。この頃ほとんど寝ていなかった。ずっと体の調子が悪かった。寝たまま目が覚めなければいいといつも思う。一年中咳が止まらない状態が15年以上続いた。2倍の人生を生きている気がした。アルバイトも松屋、吉野家(いつも2時間遅刻していた、客とケンカばかり、パトカーに乗った)、ガスト(くびになった)、天下一品ラーメン屋、すき屋(すぐに辞めた)などやった。ほとんど寝なかった。一秒一秒自分に何がしたいか訊いていた。この頃特にハンバーガーとチョコレートと缶コーヒー中毒だった。
24歳から下積みに入り(遅すぎる)、音楽でお金を稼ぎはじめる。繰り返し一瞬で天狗になりどん底へ落ちる。自信がないのに自信があるフリをしていた。だんだん自分を押し殺し見失っていった。最初はパブでエレキギターを弾きながら歌ったり(生バンドでオールディーズ, トップ40など)してギャラをもらっていた。1秒1秒をひりひり感じていた。腹式呼吸は自分で練習した。歌は下手だったのにうまいと思っていた。25歳の時に初めて年上と年下の二人の彼女ができる。音楽のためと思い付き合いはじめた。一人の子に”バカ”と言われ続け1ヶ月で”さよなら”とメールがきた(それ以降は彼女はいない)。音楽のためにと思い彼女を抱いたりはしなかった。この頃までに音楽でやれることはすべてやった。ギタリストに弟子につかせてもらったりミュージシャンの荷物持ちからはじめほとんどのことをこの頃に体験させてもらった。いっぱい迷惑をかけた。
バイト生活に戻り音楽のためにひたすら遊びまくってみる。スロット競馬競輪ボートレース麻雀ゲームセンターなどにお金をつぎ込み、コーチ屋のおじさんたちにだまされ少しお金を取られる。ギターが弾けることが嫌になったり恐くなったり変な自信がある自分に頼りすぎることが恐いと感じたりその割に歌が下手でギターを弾かないようにしていた時期がある。ずっと自分の人生のみじめさを感じ、人の幸せにも不幸にも嫉妬していた。自分自身にも世の中の人たちに対しても嘘をついて生きているのをやめたかった。自分から逃げたくなかった。すべてを断ち切ってでも自分の音楽をやるべき時期に来ていた。自分で自分の音楽を売ることを。そののち一人でライブハウスで自分のライブでブルースなどをストラトを弾き歌い一人芝居や漫談をしてみたり日本舞踊や能や歌舞伎みたいなことを見よう見まねでやったり大晦日にライブをさせてもらったりお笑い芸人の前座で歌ったりなどしていたが、なかなか音楽がうまくいかず体をこわし(尿が油みたいになりげっぷが止まらず足がしびれて感覚がなくなって体中からココナッツの匂いがして心臓がバクバクいってやせていった)”本当にもう死ぬ、自分はこの世に何も残していない”と思った時に、母に”最後に自分のやりたい音楽をやりな”と言われ39歳の時に持っている物や部屋にあるものをすべて捨てて自分の音楽をはじめる。トモカジー・ウェインという名前は自分で決めた。オーストラリアの男性やアイルランドの若い女性が”トモカジー”と呼んだり、元米軍のトランぺッターのアメリカ人のおじさんが”ジョンウェイン”と呼んでいた(トモカジーは昔の映画スターのジョンウェインに似てるからと言っていた)のでこの2つをあわせた。何もかも失い本当に0からはじめた。楽器を売ったお金が少しと母がお金をくれて、やせた体で町田のスタジオへ行って楽器を借りて録音をはじめインターネットカフェからYouTubeに自身の曲をのせはじめた。母がレモンを毎日絞ってくれて何とか持ちこたえる(今は毎日梅干し)。
2018年6月18日、トモカジーの人生で初めて自分の音楽を発売する。トモカジーのオリジナルの3Bar Musicで。ブルース3曲をダウンロードとストリーミングで発売。1st CD "ラヴシック" を2018年9月3日発表。この頃ほとんど食べていなかった。足の調子が悪く引きずって歩いていた。いつも人生の中で生まれた場所で育ってないことにちぐはぐを感じ、自分の生まれた場所にいたいと思い町田にいるようにする。Book Offでブルースの本などを毎日ずっと立ち読みした。この頃からお風呂やシャワーに約3年以上入らない生活(今はシャワーを浴びてる)。道端で作曲して歌い、ほとんどホームレスのためか、警察の職務質問や手荷物検査に約30回以上(大げさではない)あう。外へ行くのが怖くなる。世の中の人に嫌われる。"お前みたいなやつ施設に入ってろ"と叫ばれる。どこにも居場所はないと感じる。この3,4年寝るとほとんど火事の夢を見ていた。初めてのフルオリジナルアルバム "ベイビー アイ ラヴ ユー" を2019年3月18日発売。その後もアルバムやシングルのリリースを続ける。町田の路上で度々歌う。スカウトが来たがスカウトされず。その後、初めてのライブツアー ”TOMOKAZY WAYNE 1st Very Short Tour in Tokyo 2019” を10月3日2019年からスタート。そのツアーのライブアルバム "1st Live Tour in Tokyo 2019" を発表。この頃FenderJapanのストラトキャスターのサンバーストを使っていた。初のベストアルバム ”ベスト オヴ 3 バーズ" を9月3日2020年に発売。5月18日2021年、初のミュージックビデオ "マイ ファースト ラヴ" を発売。アメリカのFMラジオで曲が度々流れた。その後はお金もまったくなく図書館やショッピングモールなどの中にあるベンチで毎日座って寝ていた。”これが音楽をやる自分の運命か”と自分に言う。同年12月3日、久々のスタジオフルアルバム"マイ ルーム"を発売。2022年1月21日に2枚目のベストアルバムを発売。母がトモカジーの生まれた病院を教えてくれて二人で通った。42歳にしてトモカジーは自分が生まれた金森で初の一人暮らしをはじめるが6ケ月でへこたれて逃げ出す。母が歌や人生や畑などのいろんな話を聞かせてくれる。歌は習ったことはないが下手な歌が少しずつマシになる。同年9月にアコースティックギターで歌った初のアコースティックアルバム”トモカジー ウィズ アン アコースティックギター"を発売。また金森で一人暮らしに挑戦中。パンを食べて、発声練習9時間、曲を書く日々。自分をコントロール出来ない。自分をリラックスさせてあげられない。一人で生きていけない。母がいないと何も出来ない。母が生んで育てたトモカジーにとって母の声は水である。最近はスタジオに行ったとき以外ギターを弾いていないためギタープレイに心がこもっていないことに気が付く。すい臓がグーグーぼこぼこ鳴ってる、足の指の感覚がない、手の親指も。目の中に虫がいっぱい。右耳がごそごそ鳴ってる。もう限界、もう終わりにしたいといつも思っている。すべてが嫌だと思う。でもトモカジーの人生には曲を書きギターを弾き歌うことしか残っていない。自分に嘘をつかない音楽を作り歌いギターを弾くことをいつも心がけている。お客様方にもミュージシャンの人たちにも家族にも信じてもらえるように。
44歳になりエレキギターと音楽をはじめて30年経つ。この30年はトモカジーにとって地獄だった。2023年2月8日に新しいアルバム”30”を発売。そしてこの年の3月3日に自分の音楽をはじめて音楽のビジネスの世界の中で自分の音楽を売り始めて5周年を迎える。トモカジーの母が”ともちゃんがNHKうたコンに出るのが目標”と言った。母とトモカジーの目標である。トモカジーはいつもここにいる。子供のまま。どこかへ行かない。ギターを弾きながら歌ってみんなが来たい時に来るのを待っているひよこ。
一列に並ぶタクシーの色を見て、バスセンターのバスのクラクションを聞き、子供の頃お母さんとよく来たデパートを見上げました。東京町田駅西口の39歳のトモカジー・ウェイン。ビルの立ち並ぶ東京の町田のやさぐれTomokazy Wayne。
トモカジーのファッション
青の帽子をいつもかぶっている。今かぶっているものはツイルキャップのブルーで町田街道金森店ワークマンで母に買ってもらったもの。ちょっとななめに帽子をかぶるのがトモカジーのスタイル。ひよこの黄色のスウェットやTシャツ(母が買ってくれたトモカジーのグッズ)をよく着ている。あとはいつも西友のジーンズ。腕時計も青か黄色でダイソーのもの。これらのスタイルが自分の自然と感じる。トモカジーは1色で濃い青や黄色を好む。
あだな
母も弟も"ともちゃん"と呼んでいる。母がともちゃんは"渡り鳥"と前に言っていた。
最近、母がともちゃんは"本町田の畑のれんげそう"と言っている。
使用ギター
Squier Stratocaster Pink Finish
(現在所持しているのはこの1本だけ、ハードオフで11、000円で親に買ってもらった)
LINK
トモカジー・ウェインのオフィシャルサイト TuneCore Japan
トモカジー・ウェインへのお問い合わせ TuneCore Japan
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